当事者が闘病記を書くことの3つの意義
毎年2月最終日は世界希少・難治性疾患の日です。その時に書いた記事がこちら。
この中でぼくは難病当事者の発信が重要であるということを書きました。難病当事者は自ら発信することによって、多くの人にとってはまったく聞いたこともない難病について知ってもらうことができるからです。
ただ、当事者の発信が重要なのは難病に限った話なのかというと全然そうではないんですね。希少難病ではなくてもガンや心臓病、糖尿病、HIVなど世界には死に直結する病に苦しんでいる人は多くいます。
こうした病の当事者自身が発信する“闘病記”というものは非常に重要なものです。その情報発信の3つの意義についてぼくの考えをお話ししたいと思います。
もちろんこれは軽々しく扱う話題ではないっていうのも重々承知しています。闘病中の人は全員闘病記を書かないといけないなどという乱暴なことをいうつもりも全くありません。自分で闘病記を書くと決めた人だけが書けばいいっていうのがぼくの考えです。そのことを前提に読んでもらえると嬉しいです。
自分の生きる意欲を湧き上がらせる
重い病気に罹っている人は健康な人に比べて、死というものを意識することが多いのは仕方ないことです。
死というと怖いもの、苦しいものっていうネガティブな感情が多くなってしまい、自分の頭の中を正常な状態に保てなくなってしまう。
そういう時にこそ文字にして書き出すということはとても大事。文字にすることによって、自分は今何を考えているのかが明確になります。文字を書いていくうちに自分は何を怒れているのか、どうしていきたいのかが明確になってくるんです。
自分の中で気持ちの整理をつけることができれば、将来についての希望も生まれてくる。
” 早く元気になって好きな人と一緒に旅行に行きたい “
” 美味しいものをお腹いっぱい食べたい “
こういう希望を文字に書き起こすことで生きる力が湧きだしてくるんじゃないか。闘病記を書くのは自分自身のためなのです。
同じ病気で苦しむ人に勇気を与える
病気を持つと、同じ病気を持っている人に対してなんだか親近感を覚えるようになります。そんな時に相手が闘病記を書いていたらどうでしょう?
病気で苦しんでいるのは自分だけじゃないって思えるんじゃないですか?
それに、もし相手の方が病気が進行していた場合だったらどうでしょうか?病気が進行していても希望をもって生きている姿を闘病記を読むことによって知ることができたら、自分だって希望を持って生きていける。
それは相手だって同じです。自分が闘病記を書き続けていることによって、それを見た同じ病気を持つ人に勇気を与えられるってこともきっとある。
闘病記を書くってことは見知らぬ同じ病気を持つ相手にも勇気を与えることができるんです。
病気を持つ人の関係者に気づきを与えられる
闘病している本人とその周りの人たち。全員が同じ考え方を持っていると思っていても実際には全然違ったりするもの。特に病気を持っている本人は神経質になっていることも多く、健康な人だと想像もしないようなことで苦しんでいるっていうことだってあるんです。
たとえば以前こんなことがありました。ぼくは胸の痛みのために病院を受診した時、ニトロペンという薬を処方してもらったんです。この薬は血管を広げて血液の流れをよくする薬なんですが、低血圧の人が飲むと血圧が下がりすぎて意識が飛んでしまうことがあるそうです。
ぼくはもともと血圧が低いのでニトロペンの服用にはかなり不安な感情を抱いていたんですよ。当然心配だから先生に大丈夫なのかどうかを聞くわけです。
先生は結構軽い感じで”大丈夫でしょ”みたいな返事をされました。この例からも、大きな不安を抱いている患者と、医療の専門家である医師との間に認識に大きな隔たりがあるっていうのが分かります。専門家だからといって患者のことを全て理解しているということはあり得ないんです。
こうした患者の持つ不安や恐怖は、病気の当事者が言わなければ絶対に分からないこと。
闘病記は病気を持つ本人が書いたものです。本人にしか分からない気持ちが綴られています。こうした闘病記を周りの人間が読むことによって、闘病している人間についてより多くのことを知ることができるようになります。
全然見ず知らずの同じ病気を持つ人間。その人の家族や医療関係者が闘病記を読めば様々な情報が得られるはず。それによってよりよい治療環境を作ることができるんです。
病名を出さずとも思いを伝えることはできる
世界希少・難治性疾患の日に書いた記事の中でぼくはこういう意見も書きました。
情報を発信するかどうかは本人が決めるべき問題
つまり、自分の病気を公表してしまうことによって当事者が負い目を感じてしまったり、まわりから偏見の目で見られるなどの苦痛を味わうのなら情報を発信すべきではないということです。
ただし、自分の病名を公表せずとも自分の命に対しての思いを公表することはできます。このことだけでもとても大切なことだと思います。つまり、それはこういうことです。
病気になることによって、今まで以上に自分の命について考えるようになった。そのものすごく重みのある”命”について書く。
これは健康な人が頭で考える”命は大事だ、尊いものだ”というものとは全く別次元のものです。実際に自分の身に起きた病によって、自分の命を考えざるをえない状況に追い込まれた。そういう人の感じる命っていうのはとても重い。それを発信するということはとてもとても意義のあることなんです。
闘病中の方の生の声をまとめるディペックス・ジャパンの試み
日本にはディペックス・ジャパンという組織があり、ここのウェブサイトではガンや認知症の体験談が語られています。
ここには認知症、乳がん、前立腺がん、大腸がん検診の4つについて当事者のインタービューが掲載されています。
とても系統立てて整理されているので、その病気を持つ人たちの辿ったある地点での思いというものを知ることができるようになっています。
例えば前立腺がんについてはこのような構成になっています。
大項目として”発見”、”治療”、”経過と進行”、”生活”の4つがあり、それぞれにこのように小項目があります。
<発見>
- 症状のはじまりと受診のきっかけ
- PSA検査・検診
- 診断のための検査
- 診断されたときの気持ち
- 病院・医師の選択
- 治療法の選択・意志決定
- セカンド・オピニオン
<治療>
- 手術療法
- ロボット(支援)手術
- 術後の排尿トラブルとケア
- 手術と性機能障害
- リンパ浮腫
- 内分泌療法(ホルモン療法と精巣摘除術)
- 放射線療法(組織内照射療法)
- 放射線療法(外部照射療法)
- 抗がん剤治療(化学療法)
- HIFUと冷凍療法
- 監視(待機)療法
- 補完代替療法と試験的な医療
<経過と進行>
- 治療経過にともなうPSA値の変化
- 前立腺がんの進行と治療
<生活>
- 再発予防と体調管理
- 経済的負担
- 病気と仕事の関わり
- 家族の思い、家族への思い
- 生きること、命への思い
ぼくはいくつか見ましたがどれも非常に命に対する重みを感じさせるものばかりでした。中には胸を締め付けられるような、見るのもつらいような映像も。
末期がんで余命宣告されてから自分の人生について振り返り、生きていた証を残そうとする人など、様々な人間の生き様が収められています。
こうした当事者の生の声こそが多くの人の心を打ち、生と死にについて考えさせられます。これもインタビューという形ではありますが、一種の闘病記と言えますね。
もともとこういった試みは、イギリスのオックスフォード大学プライマリケア学科が世界に先駆けて始めたイギリスのDIPEx(Database of Individual Patient Experiences)です。ディペックス・ジャパンがモデルとしているのがこのDIPExなんですね。
DIPExにはさらに数多くの疾患についての体験談が収められています。興味のある方は是非ご覧ください。
まとめ
闘病記を書くという行為自体が病気を持つ当事者にとって負担となることも多いのは事実です。しかし、書くという行為によって病気を持つ当事者が生きる意義を見いだすこともまた事実。
闘病記を書くことによって自分自身が救われるだけでなく、同じ病気を持つ人やその家族、そして医療関係者に貴重な情報を提供することができるのです。
病気を持つ当事者だけでなく、健康な人も命について考える貴重な体験である闘病記を一度見てみるというのはいかがでしょうか。