駅のホームにピアノ!?イギリスで「表現」することについて思い知らされた

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コラム
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誰でも表現者になれるんだ

海外に行くと、日本では当たり前だと思っていたことが全然当たり前じゃないという経験をすることがよくあります。

以前、イギリスに行った時に感じたのは表現の自由についてです。

日本では今でこそインターネットが普及し、ブログやYouTubeなどで自分の考えやパフォーマンスなどを発信できるようになりました。

ぼくもこのインターネットの恩恵を大いに受けて、このブログで色々と発信しています。

でもこうして自ら発信する人ってまだまだ少ないですよね。ぼくの周りでも継続して自分を発信している人ってそう多くはないんです。

日本ってまだまだ自分で何かを表現するという文化が根付いてないのかな?

これに関しては古くから受け継がれてきた悪い意味での日本文化があります。

  • 目立ってはいけない
  • みんなと同じようにしなけりゃいけない
  • 身をわきまえて行動しなくてはいけない

良い言い方をすれば、奥ゆかしい日本人のあるべき姿と捉えられるでしょう。

でもぼくから言わせれば、「そんな生き方してるなんて何が面白いんだ?」です。

でも多くの人は日本古来の考え方に束縛されていて、自分の考えなどを表現することができなくなっているんです。

「まだまだ未熟な自分が表現者となるなんておこがましい」

「表現するのはもっと自分が成熟してからにすべきだ」

そんなことは全然ないんですって!

みんな間違ってるんだって。良いですか?

よく聞いてね。

表現するからこそ成長するんですよ。成長してからでないと表現してはいけないなんて考えてたら悲惨。気づいたら棺桶に片足突っ込んだ状態になってるんですって。

下手くそでも表現し続ける。ずーっとやってたら上手になってくるんですって。なんだってそう。

ぼく自身だってそうです。このブログを書き続けているうちに、書く文章は確実に上達しています。たまに昔に書いた文章を見ることがあるんですが、あまりにも酷くて恥ずかしさのあまり死にたくなります。それって上達してる証拠。

下手くそでも表現することが大事なんです!日本人はくだらない常識に縛られすぎ!自分を解き放て!

ぼくの話じゃ説得力ないので歴史に名を残した画家の話もちょっとだけしておきます。

フランスの画家にセザンヌという人がいます。学校の美術の授業なんかでも出てくるくらいの超有名な画家です。こんな絵を遺してますね。

人物としてはこんな人。

ポール・セザンヌ(Paul Cézanne, 1839年1月19日 – 1906年10月23日(墓碑には10月22日と記されているが、近年は23日説が有力[注釈 1]))は、フランスの画家。当初はクロード・モネやピエール=オーギュスト・ルノワールらとともに印象派のグループの一員として活動していたが、1880年代からグループを離れ、伝統的な絵画の約束事にとらわれない独自の絵画様式を探求した。ポスト印象派の画家として紹介されることが多く、キュビスムをはじめとする20世紀の美術に多大な影響を与えたことから、しばしば「近代絵画の父」として言及される。

セザンヌはサロンでの落選を繰り返し、その作品がようやく評価されるようになるのは晩年のことであった。本人の死後、その名声と影響力はますます高まり、没後の1907年、サロン・ドートンヌで開催されたセザンヌの回顧展は後の世代に多大な影響を及ぼした。この展覧会を訪れた画家としては、パブロ・ピカソ、ジョルジュ・ブラック、フェルナン・レジェ、アンリ・マティスらが挙げられる。

ポール・セザンヌ – Wikipediaより

「近代絵画の父」とまで言われる彼も、晩年までその絵が認められることがなかったそうです。彼だって世の中に認められなくても、描き続けたからこそ歴史に名を残す偉大な人物となれたんです。

表現し続けること。どれだけ大事なことか!

ブライトン駅のピアノに集まる人々から表現は自由なんだと教えられた

ぼくが電車を降りて改札に向かって歩いていたときに驚くべきものを発見してしまいました。

それはなんとホームに置かれたピアノ。

mori
えっ!?なんでピアノがこんなところにあるの?

そう思っていると、どこからか数人のグループがやってきました。そして1人の男性がピアノの前に置かれたイスに座って演奏を始めたんです。

ブライトンの駅でピアノを演奏する男性

そうすると、一緒に来ていた連れと思われる数人の男女はピアノの周りでノリノリで歌い出すわ、ダンスするわ。これにはもうビックリ!

ピアノに合わせて歌って踊る女性たち

とても軽快な音楽と明るい雰囲気にまわりも引き込まれていったみたいで、近くを通る人たちの中には立ち止まって観る人たちがちらほらと出てきたんです。もちろんぼくもその中の1人。

足を止めて彼らに見入る人たち

演奏が終わると、ピアノを弾いてた男性のグループは何事もなかったかのようにどこかへ立ち去り、普通の駅の光景に戻りました。

ぼくはこの一連の出来事にショックを受けましたね。

ピアノ演奏とダンスに歌。こういう表現がごく普通の日常な中に普通に存在するんだ。日本だったらこんなことは有り得ないよ。

みんなが表現することを特別なことだとは思っていない。ハローと言う感覚で自分を表現しているんだ。

ここに、ぼくはイギリスと日本との間に絶望的な壁があることに気づきました。文化的な大きな壁をね。

でも、同時に希望も見いだしたんです。それは、

誰であろうと表現することができる。周到な準備なんかしなくても、自分が表現したい時に気軽に表現してもいいんだ。

日本人は特に準備っていうことを気にします。さっきも書きましたけど、

準備ができてから

上手になってから

これって結局は準備ができないと表現してはいけないと言うことなんでしょう?

そんなことは全然ないんです。ブライトンのピアノのように表現したいと思ったらやったらいいんです。

それ以上のことを考える必要なんてないんじゃないの?

地下鉄通路のパフォーマーは素晴らしい自己表現者だ

イギリスで表現というものがいかに気軽にできるものなのかっていうのに気づいた出来事がもう1つあります。

それは地下鉄の通路です。

イギリスの地下鉄

ロンドンの地下鉄はチューブと言われていて、本当にチューブのような形をした細い通路が駅の中にあるんです。

この通路のところどころに床に円のようなマークが描かれた場所があります。

これは何かって言うと、パフォーマーがこの印の中でパフォーマンスできる場所なんです。

実際に何度か、この場所でパフォーマーが楽器の演奏などをしているところを見かけました。ちょうどこんな感じで。

日本だったら駅の通路で路上ライブなどしようものなら警察沙汰です。でもロンドンではこうして特定の場所を設けて自己表現ができるようになっている。

これはイギリスの社会自体が表現するということに対して寛容な社会ということです。

表現することは生きること。人間たるもの表現せずしてどうするんだ!

こう言っているような気がしてなりません。

まとめ

イギリスに行ってぼくが肌で感じたこと。それは、

自己表現することは当たり前のことであり、人によって制約を受けるようなものじゃない。

そして、自己表現することは難しいことなんかじゃない。いつでも思い立った時に表現すればいいんだ。

表現するってことは別に特別なことなんじゃないんです。もっと気楽に自分を表現したらいいってこと。

だからもしあなたが、

上手くなってから

もっと勉強してから

こんな風に考えていたならば、ぼくは声を大にして言いたい。

そんなつまらないことなんて考えなくていい。下手だって良いし、バカだって良い。思いきり開き直り自分というものを表現しよう!

表現することが生きることなんだ。

ロンドンの路上パフォーマー

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