なぜか人の死に直面しても悲しみに押しつぶされなかった
祖父が亡くなりました。
このブログは祖父が亡くなったその日の夜に書いています。こんな時に悠長にブログなんて書いている場合じゃないかも知れないけど、今このタイミングでしか書けないことがあるからぼくはこうして記事を書くことにしたんです。
今日の滋賀は晴天。桜も満開でした。もうちょっとしたら気分転換に近くの公園に行って桜でも見ようかなって思っていた矢先、祖父の入院する病院から連絡があったんです。
危篤
ついにその時が来たか。これがぼくの正直な感想。でも僅かながらの希望も持ってなかったわけではないです。もしかしたら助かるかもってちょっとだけ思っていたのも事実。そんな何とも言えない気持ちを抱きつつ、祖母を途中で拾って病院に行きました。
運転中、ぼくと祖母の会話はたった一言だけ。その口調からはまだ希望を持っているんだなっていう感じが伝わってきました。ぼくも同じ気持ちでした。
病院に着くとすぐに祖父のいるICU(集中治療室)へ。部屋の中には何人かがベッドの上で横たわって治療を受けているのが見えます。その中に1つのベッドだけがカーテンで覆い隠されていたんです。
直感でここだなって思いました。
するとすぐに看護師さんがやって来てぼくと祖母を案内してくれたんです。その先はそのカーテンで仕切られたベッド。
カーテンを開けるとベッドに横たわった祖父とその周りで忙しそうに動く機械。ある機械はピーっていう音を出しながら赤のランプが点灯しています。ただ事じゃないのは素人にもすぐに分かりました。
お医者さんがやってきてこうおっしゃったんです。
心臓が止まっています。
ぼくはすぐに死を認識しました。でも祖母はそれをすぐには認識していないよう。だって人工呼吸器が絶え間なく空気を送り込んでいるから祖父の胸は動いているんです。それを見ているから祖母はまだ生きているって思ったんでしょうね。
でもお医者が祖母の元へ行き、心臓が動いていないという事実をもう一度告げました。
ぼくもその言葉を聞いた時に祖父の死が確定したんだって実感したんです。でも不思議と涙も出なかったし、悲しみも思っていたほどではなかったことに自分でも驚きました。
本当に辛いのは最愛の人を亡くした人を見ること
お医者さんから心臓が動いていないと聞かされた祖母は祖父の死をその瞬間認識したようです。今までと違ったオーラが出てきたよう。
急に力が抜けたというか、悲壮な感じになりました。時々ハンカチを取り出して涙をぬぐうその姿がとても痛ましく、ぼくは祖父の死よりも祖母の絶望感にショックを受けて辛かった。
祖父が入院して自由が効かない姿になっても祖母はいつも笑顔で接していました。それは祖父が生きているからだった。生きているっていうことだけで嬉しかったんだと思います。
でももうその人はこの世にはいない。とうていぼくには想像できないほどの苦痛や絶望感を今、味わっているんだろう。
ぼくにはその姿を見ることが一番辛いことです。
笑顔を取り戻させないといけないからぼくには悲しむ余裕なんかない
なんでぼくが自分で思っていたほど悲しくないのか?涙を流さないのか?
その理由をちょっとだけ考えてみたんです。そうなんです、ぼくには悲しんでいる暇なんてないからだっていうことに気づきました。
ぼくは、今最愛の人を亡くした祖母を早く笑顔にしたいんです。ぼくにはそのためにやらないといけないことがきっと山ほどある。自分が悲しんでいる場合なんかじゃないんです。
そういえば祖母を迎えに行って病院に向かう車の中で、ぼくは運転しながら祖父の死についてではなく、祖母のこれからについて考えていました。
ぼくが見つめるべきものは失ってしまったものじゃない。今あるもの、未来に全力を注ぐべきなんです。
なんかこんなことを書いていて自分でも思ったんですが、以前の自分じゃこんな考えは思いもしなかっただろうな。毎日ポジティブに考えることが習慣になって、自分の身についてきたのかな。大好きな祖父の死でもここまで前向きになれるんだもん。
最後に祖父にありがとうの気持ちを込めて絵を1枚描きました。