2018年2月16日の午後、大切な人が亡くなりました。
実は去年12月に一度自殺を試みたのですが、この時には懸命の治療の甲斐もあり息を吹き返したんです。
でも、今回は本当に本当に逝ってしまいました。
せめてもの救いは、自殺ではなく病死だったこと。
自分勝手な思いですが、自ら命を絶つことだけはしてほしくなかったので……
去年ずいぶんと悲しんだせいか、今回は思ったよりも冷静にこの事実を受け入れられているのに自分でも少し驚いています。
ただ、猛烈な後悔が残っていることは確かです。
ぼくの行った行動は果たしてこれで良かったのか?
どうしていれば良かったのか?
少し考えてみました。
瞬間瞬間にベストを尽くさなければ後悔が残る
なぜ後悔するのでしょうか。
後悔とは自分自身に対する大いなる失望と怒りです。
もっと良い方法を取ることができたのに。
その方法が頭の中にあったにも関わらず、実行することができなかったためにおきてしまった(可能性の話ですが)悲惨な結末。
あの瞬間に自分のベストを尽くしていれば防げたかもしれない。
この自分自身へのふがいなさに対する憤りが後悔なんです。
だから後悔しないように生きるには、「瞬間瞬間ベストを尽くして生きる」ことが一番大事なこと。
「あの時こうしていれば」と思いは一生傷となって心に深く残る
今、ぼくが一番後悔しているのは「ああしていれば良かった」ということです。
後悔先に立たず
この言葉は本当にその通りだってことが痛いほどよく分かりました。
「あの時こうしていれば」はずっとずっと後悔として心の中に残り続けます。
さっきも書きましたがとても重要なことなのでもう一度言いますね。
今、この瞬間瞬間に自分のベスト尽くさなければ後悔が残ってしまう。
ベストを尽くしていれば完全燃焼の諦めがつきます。
でも、ベストを尽くしていなければ不完全燃焼の悔いしか残らないんです。
ぼくは今、不完全燃焼の悔いに打ちのめされています。
ぼくの「あの時こうしていれば」
いくつかの「あの時こうしていれば」をお話ししますね。
どれも死の知らせを聞いた直後、心の奥底からふつふつと沸き上がってきた後悔です。
1.理由をつけてすぐに会いにいかなかった
去年、死の知らせ(翌日息を吹き返しましたが)を聞いた瞬間、ぼくはカンボジア行きのチケットを探し始めました。
とっさにとった反射的な行動だったと思います。
そして翌日に息を吹き返したと連絡がありホッと一安心。さらに1週間ほどで完全に以前の状態に戻ったという連絡が。
普通にコミュニケーションが取れるようになっていたので安心しました。
これならすぐに会いに行かなくても大丈夫。
はじめの予定通りにカンボジアに行けばいいか。
そう思っていた時、この訃報を受け取ったんです。
もし、すべての予定を放り投げて会いに行っていればこんな結果にならなかったのでは?
そんな思いがしてなりません。
そして、前回に会ったのがまさか最後になるとは……という気持ちで一杯です。
2.日本へ呼ぶ計画をもっと具体的に話せなかった
前回会った時にこんな話をしたんです。
日本に行って桜を見たい。どれだけ時間がかかってもいいから。それが夢。
夢を叶えてあげられなかったのが本当に本当に辛いです。
もちろん、一緒に桜を見ようと伝えました。
でも、もっと具体的な計画を話すべきでしたね。
漠然とした夢じゃなくて、叶いつつある夢を示せたら結果が変わったのかも知れない。
そんな風に思えてなりません。
3.病院搬送のお金をすぐに送金すべきだった
容体が悪くなったのは亡くなる2、3日前。
部屋に引きこもり、40℃を超える発熱が続いているという連絡が友人からあったんです。
友人はすぐに病院を受診すべきと両親に何度も話をしたそうです。
ところが両親の答えはNO
病院への受診がもっと早かったら助かっていたかもしれない。
ご両親が病院の受診を拒んだことについて、1つだけつけ加えさせてください。
それは、決して両親が自分の子がかわいくなくて受診を拒否したわけではないということ。
カンボジアにはまともな医療保険制度はありません。
日本のように、病気になったら国から手厚い保障を受けられる環境にはないんです。
かかった費用は全部自分で支払わなければなりません。
経済力のない人たちはまともな医療を受けることすらできないのがカンボジアの現状なんです。
12月には蘇生のためにきっと多額の費用がかかったのでしょう。
家計のことはぼくは全く分かりませんが、経済的な理由もあったのかもしれません。
高熱があまりにも続いたのでようやく病院の受診を決断したのが亡くなる前日。
さらにその病院では十分なケアができないということで、首都への搬送を提案されたらしいのですがご両親は拒否されたそうです。
もっと早く治療のためのお金を送金していれば助かっていたかも知れません。
送金の申し出をした数時間後、死亡の連絡が届きました。
無事を祈るだけというのは無責任なこと。
結局は行動しなければ何も意味がないんです。
4.躁鬱病のケアを家族や親しい人だけでなく専門家にも協力を依頼すべきだった
今回の死因は病気だったんですが、そうなる過程に躁鬱病はかなり大きな影響があったようです。
気分の大きな変調で、かなりめちゃくちゃな生活を繰り返した結果発症した病気。
ご両親や家族、そのまわりの人たちも相当疲弊していたようです。
送られてくるメッセージからは疲労の色が日増しに強くなってきていました。
身近な人たちによるケアはもちろん必要だけど、その限界を感じました。
もっと専門家(精神科の医師など)のサポートを受けた方が良いと話をすべきでした。
もし生きていたら、次回のカンボジアではそういう話をする予定だったんです。
「次回」という時点で、さっきの話になりますが「問題の先送り」になっていますね。
亡くなった後に溢れ出る後悔
こんな感じで、亡くなったという連絡を受けてから色んな後悔が心の奥底から沸き上がってきました。
きっとどれも、やろうと思えばできたことだったはず。
「できたのにやらなかった」という後悔は本当に大きくて、今となっては絶対に取り返しができないんです。
一瞬でも「やった方がいい」と思うのであれば、すぐにでも行動に起こすべき。
まとめ
大切な人を亡くすことで痛感した「後悔しないための生き方」。
打つ手があったのに、それをやらずに人を失ってしまう。
後悔とは、そんな過去の自分に対する大きな失望と憤りです。
大きな後悔は心に大きな傷を残し、一生消えることはないでしょう。
やらずに後悔するより、やって後悔する方がいい
これからの人生、もうこんな後悔はしたくないので瞬間を大事にしてベストを尽くせるように生きていきます!